昭和57年4月6日 朝の御理解         【 末永信太郎 】

第85節 女の身の上、月役、妊娠、つわりに、腹痛まず、腹帯をせずして、産前、身軽     く、隣知らずの安産。産後、よかり物、団子汁をせず、生まれた子に五香いら     ず、母の乳をすぐ飲ませ、頭痛、血の道、虫気なし。不浄、毒断ちなし。平日     のとおり。


 昨日、研修が終わりましてからでしたでしょうか。皆さんも求めておられる、読んでおられると思う。幻聴というのがございますね。この幻聴に、今、ずっと甘木の初代安武松太郎先生の御伝記のようなものが、漫画で毎月、度々載ってきております。その漫画のところを、まっ、昨日は、この頃、目が薄くてよう分かりませんから、恒之先生に読んでもらいました。ところが、漫画ばっかりは読んでもらったっちゃいかんですね。はい。あれや、やっぱ絵を見らなきゃいかんですばい。はい。

 お互いの信心もね、その言うなら、お話も頂かにゃならん、また、それを行じもしなけりゃならんけれども、おかげも頂かなければ、やっぱ面白ない。ね、そこが合間って行く。私は昨日、結局だけん分からんですね、断片的にこう書いて。漫画ば見ると、その一言、簡単な表現で書いてあるのが分かります。段々、いっちょ漫画もののような信心から、ね、もう、(挿絵?)なんかもないごたる。ね、少しは難しい本も読み習うような信心にもなって。いつまでも漫画のような信心ではいけないと思いますが。

 中にね、昨日のその漫画の中に、まだ安武先生が御信者時代に、小倉の初代の元で、もう御用をなさる事が楽しゅうて堪えん。もう、とにかく修行生の先生方が、もういよいよ、色んな御用をなさっておられるのが羨ましゅうして堪えん。ある時、先生が、安武さん、今日はこういう御用があるからと言われて、それから御用をさせて頂くようになり、もうお忙しい時には5日も6日も泊まりこんで御用したとあります。もう、それがもう、有り難うして、こういう御用が自分に与えられるという事は、もうこんなに嬉しい、有り難い事はなかったと、まあ、言うなら喜び勇んでの御用であったようですね。

 ある時、桂先生が御本部に榊の木の大木とありますけども、大きな榊の木を二本、(けんぶく?)なさる、お供えをなさる事になったんですね。それで何と、車力に積んで、歩いて御本部まで引っ張って行く御用を安武先生がなさっておられます。どんなに考えたってもね、おかしい。貨物、まあ、明治の頃で。まあ、貨物とか、または、まあ、その時分トラックはなかったりしましても、何とかね。あの、近所から買われてからでもお供えなさったら良かろうとこう。思いますでしょう。

 ところが、安武先生は、そういう御用がもう本当に、それこそ喜び勇んでなさっておられますですね。小倉から御本部まで車力引っ張って、二本の榊を御本部にお供えにお出でられたという。私、こんな事を初めてこの漫画で知ったわけでございますが。ちょうど、四時の御祈念でしたから、その事がね、まあ、桂先生という人は、無理な事を言う人じゃあると思うてですね。まあ、話は、話には聞いとったばってん、とても(だった?)二本の榊の木を小倉から岡山までも引っ張ってお供えにやられるという。ね。

 まあ、本当に、まっ、ある意味合いで無茶苦茶な人だなあと。ね、ところがね、合楽で言われる、いわゆるくちゃむちゃの事であることが、後でお知らせを私頂いて、わかったんです。ね。あれが信心のない者だったらあ無茶苦茶な話でしょう。けれども、安武先生にかけられる神様の願い、深い小倉の桂先生の思いというものは、本当に無茶苦茶なようであっても、それが無茶苦茶ではない、くちゃむちゃである。

 四時の御祈念に入って、その事が、まあ、思うとりましたから、別にお伺いをした訳でもないけれども、その事に対してすぐ神様がご返事を下さった。というのは、このお道の教師、この紋付袴をつけて、その様子を頂いて、手首がない、両方とも。袴を履いておられる人の足首がない。という、お知らせを頂きました。皆さん、どういう事だと思いますか。なるほど、私はあの、ここでは道徳的とか、常識、超常識ですよと。超道徳ですよという風に申しますが。その、超合理的だと思いますね、お道の信心の神髄は。

 ね、だから、例えば今日の御理解のようにですよ。ね、産前産後の事、もう本当に、牛馬まで言わっしゃる?ように、もうその日から、普通の通りとこう言われておられる。ね。まあ、考えようじゃ無茶苦茶なような感じがしますけれども、まあ、その、現代の医学というか、道徳を知っとる常識に言うたら、とてもこんなもんじゃ出けないような感じがするんですけれども。

 ね、先だって、先だってというか、あの、今の末永先生のところの一番下の真佐世さんが生まれる時には、もうそれこそ、あの、医者にもかからず、産婆さんにもよらず、もうおかげを頂いて、いわゆる神乍にそれを行じ抜かせて頂きましたら、お夢の中で陣痛が始まる。お夢の中で出産のおかげを頂いて、そして実際に生まれたち言うんですからね。だからそういうですね、やはり、超合理的という、信心からすりゃ、やっぱり超のつくおかげも、お徳も受けられるんですよね。

 私どもが段々、信心が手厚う出けて来るようになり、信心に楽しみが湧くようになり。御用させて頂く事が有り難うして堪えんというようになって来る時に、神様の目がどこに止まるだろうかと。言うならば、末は神の手にも足にも使おうという働きが起こって来るんです。ね、それに手がなかったり、足がなかったりしたんでは、どうぞ神様の手にも足にもならせて下さいと言うとるだけじゃ出けんでしょうが。

 それにはね、んなら、こういう事にでも、はいと言えるか。こういう事にでも有り難くそれを受けられるかと。まあ、当時の桂先生と言やあ、まあ、生神様のように皆が言う、思うとったんですから、ね、これは神様のお心である、願いであると分かられた時に、とても人では出けんような御用が嬉しゅう出けられた。そこにあの、甘木の言うなら大徳を受けられる元があったという事でございます。ね。

 昨日、宮崎のある教会の、ここには一回も参った事がないですけれども、ここで、おかげの泉やら、合楽だよりやらを、まあ、愛読して頂いておるお教会の奥様もやっぱ先生だそうですが。先だってから、まあ、色んな難儀な問題を電話でいつもお届けがあるんです。昨日も、電話がかかって参りました。それが、先生の妹さんという人が来ると、もう大変に、もうそれこそ、もう心をいわば傷つけられる訳ですね。もう、それこそ引くように突くように、刺すような事を言われる。

 それを聞くと、もう心が暗くなってしまって、もう落ち込んでしまう。そして、情けない思いに涙すると言うのです。親先生、こういう時にはどういうような信心にならせて頂いたら良いでしょう。ね、おかげの泉を読みよんなさるでしょうもんち私が言うたら、はあ、もう繰り返し繰り返し読みよりますと、こう言う。ね、彼女のところでは、どうでも今度は、まあ、ご普請があって、借金をされて。もう、それもあの、おかげ頂きなさらんならんと言うてお願いがあっとるが、とにかく、大きなおかげが頂きたいとでしょうもんち言うたら、そうです、もうどうでも大きなおかげを頂きたいと思いますち。ね。

 ね、合楽ではね、いわゆる私がいつも申しますように、問題が問題にならない。どころか、むしろそれに対してお礼が言えれる。合楽理念はそこを説くんですよと。大きなおかげが頂きたいなら、彼女、大きなおかげの受け物を作りなさらな。どうぞ大きなおかげを頂かせて下さいばっかりだけじゃ駄目。ね、それこそ、自分の心をいわゆる、御教えがわからない時には仕方がない。もう、それこそ突くように、刺すように言われて、こっちが傷つくのだけれども。ね。

 そういう時ほど、豊な大きな心で、ずっと金光様を念じながら受ける。はあ、これによって、豊な大きな心が頂けれるんだなあと思うたら、あんた有り難いでしょうがて。本当そうでしたち言うちから、まあ、分かりなさったか分からんか知らんけれども、まあ、お礼を言うて電話切られました。これはそうですよ皆さんも。大きなおかげが頂きたい。ね。ならば、言うならば大きな願いを立てなければなん。言うならば、神様の手にも足にもならせて頂こうというような願いを立てますと、いわば、何と申しましょうか。ね。

 言うなら、超合理的。合理的じゃない、どうも合点が行かん。小倉から御本部までも(   )車力を引っ張って、お榊のけんぼくをなさるといったような事は、どげん考えても、今の時代の私どもの信心では分からん。けれども、神様の深い思いというのは、ね、将来はそれこそ、ね、当時日本一と言われるような大徳を受けられる安武先生に対して、神が手にも足にも使おうと思われたところから、そういう、まあ、言うならば無理難題の感じですけれども。それを、安武先生は、もう本当に自分でなからなきゃ出けん御用として、有り難く受けた。これは、昨日の漫画に載ってますから、皆さん読んで見て下さい。
 ね、これは史実を元にして、あの、書かれたものでしょうから、嘘ではないと思います。そして、私が頂くお知らせ。ね、いくら金光様の先生と言うてもです、神の手にも足にもなれんような先生が沢山おりゃせんでしょうかね。口では言いよる、神様の手にも足にもならせて下さい。ね、そんなら、どういうような事の場合であっても、言うなら、はいと言えれる、言うならば心。ね。そして、初めて神の手にも足にもなるのじゃないでしょうかね。

 皆が大きなおかげを頂きたい。ったら、言うなら、結局大きなおかげというのは、大きな信心。大きな信心とは、いよいよ自分の心が豊に大きくなって行く修行。なら、その修行は、ね、甘い物もあろう、苦い物もあろう、辛い物もあろう。ね、もうすべてを自分の栄養にして行けれるような頂き方こそが、いよいよ大きなお徳にも、おかげにも触れる事が出けるという事になります。お互いの場合は、ね、言うただけじゃ分からん。おかげを見らなければ承知しない。

 私が昨日、漫画を読んでもらったのと同じ事。読んでもらっただけじゃ分からん。絵もやっぱこうやって、虫眼鏡かけてこうやって見てから、そして読んでもらった。そすと分かる。だから、そういう信心からです。ね、言うならば、難しい漢字ばかりで書かれておるようなご本でも、ね、読んで分かる。楽しゅう読めれるというような信心にも、段々なって行かなきゃならんと思う。それにはね、今日の御理解の、今日の御教えは私はどんなに考えても、現代の人達の感覚で、ね、こういう無茶な事は出けないようにあるけれども。もう、本当に身も心も任せましたと言うなら、出けん事ない。

 ね、腹帯をするなと仰りゃ、もう本当に腹帯をしない。ね。もう、それこそ、産んだら明くる日から、ね、平日の通りの御用が出けるようなと仰るから。ね、そこに無理とか合理的でないとか、医学的でないとかといったような事を、一遍振り切って、捨てて。そして、神様の仰せに従うという生き方に、私はお徳が受けられる。なるほど、神様の奥がと言うかね、奥が分かって来る。信心の奥がを求めてというのは、そういうところも、辿らせて頂かなきゃならん。

 無理難題のようであっても。ね、後から通って見ると、こういう力、こういう働き。言うならば、甘木の初代のところで、ね、あれほど沢山な人が助かられた。いよいよ、神様の手にも足にもなられる事が出けられたという、お互いも心の中に、また祈りの中に、どうぞ御用も出けますようなおかげを頂かせて下さい。大きな御用が出けますように。言うなら、神の手にも足にもならせて頂きたいなら、そういうところもやっぱり乗り切って行かなければならんという事が分かりますですね。

 合楽理念に基づきますと、分かります。言うなら昨日、電話でのやり取りじゃありませんけれども。ね。それこそ、心が落ち込んでしまうような時ほど、いよいよ心を大きくして下さる神様の働きであると分かったら、お礼が言えるという事にもなりますね。今日は、広島支部の大祭がございますので、私は今朝から、あの、朝発ちます。皆さんは明日のでしょう。ね。今日はだから、皆さんの朝早うございますから、お取次ぎが出けませんので、総代さんのお届けまでさせて頂いて発ちます。どうぞ。